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1941年から1942年のフィリピンの戦い(フィリピンのたたかい, Battle of the Philippines, 比島作戦, 日本側作戦名「M作戦」, 1941年12月8日 - 1942年5月10日〔ミンダナオ島でのシャープ少将の降伏の日を区切りとした。〕)は、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。 本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。 == 背景 == フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。 アメリカも、想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。 だがダグラス・マッカーサー司令官はこの案に不満であった。マッカーサーは1935年にアメリカ陸軍参謀総長を退任し、マニュエル・ケソンの要請でフィリピン軍新設のための軍事顧問に就任していた。その後1937年にアメリカ陸軍を退役していたが、1941年7月にフランクリン・ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍の司令官となっていた。マッカーサーは、10個師団にまで育て上げたフィリピン軍と、アメリカ軍の最新鋭機の戦力をもってすれば、フィリピンの防衛が可能であると考えていた。1941年10月にオレンジ計画を引き継いでレインボー計画が改定(RAINBOW 5)されたとき、マッカーサーは見直しを要求し、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換した〔''The War in the Pacific'', pp 64-65〕。 日本では、1941年11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定され、6日に南方作戦部隊の戦闘序列が下令された。シンガポール攻略を重視する陸軍はマレーに重点を向け、アメリカ主力艦隊の迎撃を重視する海軍はフィリピンに重点を向けることになった。シンガポール攻略に開戦後100日を要すると考えられたのに対して、フィリピンは45日で主要部を攻略できると判断された。フィリピン作戦を担当する部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フィリピンの戦い (1941-1942年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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